WATANABE KATSUMI

2013年10月22日

渡辺克巳 写真展V 「HAPPY STUDIO!」

渡辺克巳 写真展V
「HAPPY STUDIO!」
2013.09.25(wed) - 10.20(sun)
同時開催:原芳市「ストリッパー図鑑」
リンク:IMA ONLINE

渡辺克巳は一時期、東中野で写真館を経営していました。
表向きの名称は中山スタジオでしたが、渡辺はそこを「ハッピースタジオ」と呼んでいました。
今回の写真展は、その「ハッピースタジオ」をタイトルに、陰あり、日向あり、それぞれのHAPPYをおとどけします。

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1980 Gelatin silver print
Akemi Edo JAGATARA/shinjuku modern art

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(c) Katsumi Watanabe


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 zine 「HAPPY STUDIO!」

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SEC Bricolage | やや甘口
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BRUT Bricolage | 辛め
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高架下のマットレスと婦人傘の出会いのように美しく
 拾ってきたものを頭の上に飾り、街中を歩いている宮間英次郎という男がいる。彼はリュシエンヌ・ペリーから、アール・ブリュットのパフォーマーとしてお墨付きをいただいている。拾いものを寄せ集めたゴチャゴチャ感いっぱいの被り物は、アール・ブリュットの定義にもれず、世間一般の価値観から大きく逸脱し、ゴミのごとく不要だ。しかし、世間に不要であればあるほど、逆に宮間単体にとっては完成度の高いブリコラージュだといえる。常識人からみれば単なるゴミだが、彼にとっては人生を楽しませてくれる唯一無二のものだ。
 路上で生きた渡辺克巳は、新宿のトルコ嬢・ヌードスタジオ嬢・オカマ・ヤクザ・ホステス・浮浪者を、ゴミがあろうと傾きかけた看板があろうと、場末の背景はそのままに撮っていた。お客さんに、「何だおまえ、こんなきったない所をバックにして撮って」と云われても、「いやいや、これは絶対いい。後でいい思い出になりますよ」 「あんたは<ここ>に立ってたんですよ」と云って撮っていた。つまり、渡辺はその場をまるごと抱え込みながら、人物にカメラを向けていた。ここで重要なのは、人物のみにフォーカスしていないという点だ。渡辺の写真はフラッシュを焚いて背景を消しているイメージが強いが、よく見ると映り込んだ周りのゴミは、被写体・渡辺克巳と共に同化し、フレームに収まっている。
 ここに渡辺の撮った二組4枚の写真がある。それぞれの組の上の写真を見ると、高架下に棲む者の生活道具が散乱しすぎていて、ゴミのようにしか見えない。コンクリート柱に立て掛けられた婦人ものの傘、敷物の周りに横倒しになったレストランの業務用ワインボトルや洋酒らしき空き瓶など、殆どが捨てられたものを拾ってきたのであろう。一言でいうと、汚らしい。しかしそれぞれの下の写真に目を移すと、地面から湧き出たように立ち上がった人物は、至福の表情をしている。被写体にドラァグクイーンと浮浪者の違いはあるが、自分のお気に入りを寄せ集め、高架下の散乱したものと同化したような仮装のゴチャゴチャ感は共通だ。この二人の人物は、一見ゴチャゴチャにみえる仮装を着こなし、からだ全体から、ひと時の幸せパワーをスパークさせている。写真が伝えるのは、そこに写り込んだ全てのものとの間に、パワーをさえぎる要らぬ結界がないということだ。
 その場をまるごと抱え込むことは、まるごと引き受けることであり、それを引き受ける渡辺にしてみたらちょっとキツイ話だ。しかし、彼は引き受けた。トルコ嬢・ヌードスタジオ嬢・オカマ・ヤクザ・ホステス・浮浪者やゴミを、善悪・美醜を超えて引き受けた。渡辺とゲイの<許容と同化>、渡辺と浮浪者の<許容と同化>、これくらいまでは理解できるが、渡辺とゴミの<許容と同化>、これはちょっと理解に苦しむ。が、事実、渡辺の写真はその<許容と同化>を我々に伝える。お行儀の良い常識人の価値観を持つ我々は、従来の道徳観や美醜の基準を一度シャッフルし、原初的なエネルギーから湧きたつ無頼に立ち返ることも時には必要なのかもしれない。



渡辺克巳、36才、写真館時代のインタヴュー記事(写真通信1977年)

質問 好きな写真家は誰ですか?
渡辺 アーバスさんですね。この人、どんな風にしてこんな所に入り込んだのかと思って、スゲー人だなって思った。<中略> 理詰めでいくとね、絶対あれは写真撮っちゃいけなくなっちゃう。アーバスみたいに死ななければならなくなる。でも、僕は死ぬことはないと思う。そこは東洋と西洋の違いみたいですね。

質問 今いちばん関心あることって何ですか?
渡辺 虚空人間みたいなの。関心があるっていうか、撮りたい。たとえば、飯食うだけで生きてるとか。カメラやってて手が撮っちゃうというのは、そういうところだと思うわけ。飯食ったりするのと同じようになりたいじゃない。
それから日本人を撮りたい。日本人の尾骶骨みたいなの。

質問 最後に、写真をひとことでいうと。
渡辺 人生そのもの。        <全文表示 pdf>



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新宿に死んだ無頼のブリコルール
 世の中には「ゴミ」と呼ばれる人たちがいる。ゴミはすでにその役目を終えたもの、いわゆる「用なし」だ。この一枚の白黒写真にある女は「ユリちゃん」と呼ばれ、新宿で働いていた娘だ。ユリちゃんは「ヒモ」と呼ばれる男に撲殺された。殴り殺したヒモもゴミのように殺されたユリちゃんも、表社会には用なしだ。その用なしな人たちを撮り続けた写真屋がいた。写真屋は裏の新宿を流しながら、路上に棄てられ靴底で踏みにじられた吸殻や、どこからともなく漏れ出てくるタンツバ小水混じりの汚水とともに「用なしな人々」を撮っていた。その路上に打ち棄てられた用なしなものたち、誰が吸ったか分らないタバコの吸殻や誰がたれ流したか分らない汚水は、写真屋の写真の中では不思議に、それぞれ絶妙な間合いをもち、用なしな人々を優しい陰影で包みこんでいる。
 太古に湿地帯からウジのように湧いてきた異形なものたちは、21世紀の今もやはりウジはウジのまま。そのウジの屍が何層にも重なりひそむ裏を、アッケラカンとした表の人間が、笑いながら踏みにじりながら徒党を組んで闊歩している。裏も表もウジも湿地帯から湧きでたシダや爬虫類が遠い先祖だということを忘れたかのように。ウジが育ってハエとなり、そのハエが裏のゴミにも、表の笑い顔にも容赦なくたかってくる。しかし、オモテにとっては、ウジもゴミも残飯も汚水も、所詮遺棄され排泄されたものからの用なしな派生ぶつ。
 その遺棄されて用なしになったものたちを、一つ一つ丁寧に愛おしそうに掬い上げ、手のひらからこぼれ落ちないよう白黒の写真にのせた写真屋。タンや吸殻やウジや小便は、太古の昔から用なしな人々のまわりにアメーバのように姿かたちを変えながら優しく包み込むことを知りえていたかのように。その姿は忌み嫌われる異形であればあるほど崇高な美をもった一枚の画となり、誰に見られることもなく静かに佇む。著名な人類学者が秘境の地でようやく見つけた我々のルーツのようなそれを、いともたやすく写真屋は新宿の上に露出させてしまった。しかし、写真屋の行動は確信犯だったのかそうではないのか、今は知るよしもない。



 

 
posted by 汐花 SEKKA BORDERLESS SPACE at 12:20| Comment(1) | 渡辺克巳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お葉書ありがとうございます。
久留米に移られたのですね。

社団法人設立、おめでとうございます。
ナベさんの写真が近代美術館や写真美術館に収蔵されたと、お祝い申し上げます。

写真展、開催の際には、ご連絡頂けますでしょうか、お願いいたします。



Posted by SOX at 2014年07月20日 19:38
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